浅草「來々軒」が新横浜ラーメン博物館に復活オープン!日本で初めてラーメンを広めた原点
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※追記(2020年10月9日)
オープンに先駆け、來々軒の店舗や再現までのプロセスなど現地で詳しく伺ってきました。オープン直後は施設内で來々軒の特別展示も行われるので時間に余裕を持って行くのがおすすめです!
日本で初めてラーメンを広めた原点であり、ラーメン史を語る上で欠かせないお店・浅草「來々軒」が、來々軒の創業者・尾崎貫一氏の孫である高橋邦夫氏と玄孫である高橋雄作氏の協力を得て、2020年秋に「新横浜ラーメン博物館」に復活します。
浅草「來々軒」は、1910年(明治43年)に横浜の南京町から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に創業。日本初のラーメンブームの火付け役です。
当時使われていた小麦粉や調理方法などを解明し、來々軒のラーメンを味わえる企画を実施します。
浅草「來々軒」について
來々軒がオープンした当時はラーメン店という業態は存在せず、ラーメン店の誕生背景には、來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態を繁盛させ、広めたことがスタートとなります。
大正後期の來々軒
來々軒の繁盛により、すぐに來々軒と同じスタイルのお店が続々と誕生。
当時浅草は、歓楽街で全国から人が訪れる場所であったため、そのスタイルは首都圏のみならず全国に広がります。來々軒は「支那そばで売込んだ店」と書かれているように、ラーメンが一番人気であったため、同じ業態の広がりだけでなく、食堂や蕎麦店、洋食店、カフェなどの様々な他業態でもラーメンをメニューとして取り入れるようになり、來々軒を起源とした「日本初のラーメンブーム」が起こりました。
浅草六区と來々軒の功績
來々軒は、1910年に浅草新畑町にオープンし、1944年に第二次世界大戦により一時閉店。1954年に八重洲で「來々軒」を再開し、1965年に立ち退きにより内神田に移転します。以降、後継ぎがいない等の理由により1976年に閉店を迎えました。
來々軒の屋号は、太宰治『斜陽』、手塚治虫の『三つ目がとおる』など著名な作品のラーメン店の象徴として登場。そして現在、來々軒の屋号を使用している店舗は国内に171軒(2020年5月時点)、海外ではパリやニューヨークまで広がっています。
新横浜ラーメン博物館で浅草「來々軒」復活オープン
浅草「來々軒」の再現は、これまでの取材と調査に基づいて、明治43年の創業当時(110年前)をイメージしたものです。
再現された來々軒のファサード
麺に使用する小麦は、明治まで遡り、当時の遺伝子を持つ後継品種を使用し青竹打ち製麺で再現。具材も当時使用していた食材を用い、当時の調理方法で再現します。
再現された「來々軒」のラーメン
スープに関しては時代と共に食材の品質や味の嗜好の変化があるため、当時使用していた醤油や食材の基本は変えずに、現代風に解釈した味わいに仕上げます。
■ 新横浜ラーメン博物館 施設情報